「電気が足りなくなるのは、こわいから。」
「環境にやさしい電気を、大量に安定して出せる手段は手放せない。」
「『電気の安定と環境のため』── ええ、ついでに、動かしてはじめて元が取れる設備の事情もね。」── そこまで計算してる
同じ「賛成」でも、見ている世界はこんなに違う。
そして「電気の安定と環境のため」という言葉は、たいていいちばん深く読む人が考えて、いちばん何も知らない人に向けて作られている。
夏や冬に電気が足りないかも、と言われたときに、不安な経験をしたから。
電気代が上がるたびに、生活も会社も苦しくなる経験をしてきたから。
電気代が安定する方が、家計にとってありがたいから。
電気代が落ち着くと、自分の業界の生産コストも下がって助かると思うから。
すでにある設備を使わないのは、もったいないと思うから。
環境にやさしい電気を、安定して大量に出せる手段を、簡単に捨てるべきではないと思うから。
原発をやめても、危なさは消えない。燃やす空気の側か、燃料を運んでくる海の向こうか ── 置き場所が変わるだけで、危なさを置かずにすむ場所はない。
すでに建ててしまった発電所は、動かさなければ、ただの巨大な借金として残るから。
「電気の安定」「環境のため」と言いながら ── それは、動かせば設備の元が取れ、止めれば全部が損になる側の言葉でもある。発電所のある町も、担当する役所も、動くほど入るお金と仕事が増えて、同じ「動かす」側に並ぶ。
「現実を見て判断できる人」でありたいから。
技術や合理性を大事にする仲間と、考えを合わせたいから。
「嫌われても現実を語れる自分」── そう名乗れた瞬間から、不安の声が「分かっていない人の声」に聞こえはじめる。
電気が足りなくなる将来が、こわいから。
電気代が高すぎて、産業も家計も沈む未来が、不安だから。
電気代の明細を見せ合って「高いよね」と言い合う、その輪の中に自分もいるから。
「結局、動かすしかないでしょ」という職場の空気の中では、危なさの話を蒸し返すのは野暮に見える。野暮に見えること自体が、空気の力。
身近で、事故の影響で生活や故郷を失った人の話を聞いてきて、こわいと感じたから。
自分や家族が、事故のあと不安と隣り合わせで暮らした経験があるから。
事故が起きたら、自分や家族の暮らしが一気に壊れるのが、率直に嫌だから。
結局、廃炉や事故処理のコストが、税金や電気代で自分に回ってくると思うから。
人の手に負えない事故が一度でも起きるなら、使わない方がいいと思うから。
子どもや孫の世代に、長く残るゴミと不安を渡すのは、無責任だと思うから。
ほかの失敗は、お金と年月で取り返せる。原発の大事故だけは、故郷ごと持っていって返さない ── めったに起きないことと、起きてもいいことは、別の話。
太陽光や風力を売る側にとって、原発が空けた分の市場は、そのまま商売の場所になるから。
「子どもたちの安全」と言いながら ── その旗の隣には、原発が空けた市場を取りたい太陽光や風力の商売と、反対の声を支持に変えたい運動の側も立っている。声が本物であるほど、隣に立つ者は見えにくい。
「未来の世代の側に立てる人」でありたいから。
環境や安全を大事にする仲間と、考えを合わせたいから。
「子どもたちの未来を守る自分」── そう名乗れた瞬間から、賛成の声が「お金の側の声」に聞こえはじめる。
もう一度大きな事故が起きる景色が浮かんで、こわいから。※「不安だから動きたい」という感情のかたちは、賛成側とまったく同じ。向きが違うだけ。
長く残るゴミと事故のコストが、未来にのしかかる景色が、不安だから。
事故の映像を覚えている人どうしの会話は、「こわいね」から始まる ── 自分もそこから外れたことがないから。
「子どもがいる場所で動かすなんて」という輪の中で、「でも電気代が」とは言い出しにくい。その言い出しにくさを、自分も一人分、作っている。